言葉足らずで上手に説明できない……誰か、女性向けパロディ同人(シリアス・悲恋系)の雰囲気を理路整然と語れる者は居ないか。『ハチクロ』の、物語と並存してるのに異次元で進むあのモノローグがいいよね〜、的発言をする一般読者を見ると「おっ」と思う。このひと素質あるな、って。(何のだよ) Twitter / okadaic
「このひと素質あるな」と思ってもらうために、頑張ってみます。
 ハチミツとクローバー : 羽海野チカ
岡田育さんの想定しているのは、上の画像のようなシーンでしょう。上は『ハチミツとクローバー』の2巻。すっかりと酔いつぶれてしまった山田さんを、真山がおぶって家まで送る場面です。しっかりと振った理由を告げる真山と、それを聞きながら悲しさと奇妙な嬉しさを感じる山田さんです。
真っ黒な夜の中で、白く囲まれた部分が現実の二人の台詞です。山田さんと真山がそれぞれ、ぽつりぽつりと言葉を交わしています。一方で、背景に直接に書き込まれた独白もあり、これは内容から考えて山田さんの心情が吐露されているものと考えられます。
背景から浮かび上がった台詞が情景の表す時間や状況に準拠しているのに対して、モノローグ部分の内容は描かれた二人から浮き上がっています。発言者は存在しているにも関わらず、存在していなかったような。そんな視点なのです。
状況的にも、時間的にも同一でありながら、その瞬間から浮かび上がるもの。あるキャラクターの心理状態として描かれていながら、その人物の知りえない情報でさえ持っているかのような言動。これは一人称の小説における地の文に相当するものだと見ることができます。
たった一人の主人公が定められており、その人物の視点でストーリーが語られていくもの。それが一人称の小説です。簡単に言いますと、「私は○○を見た」、「僕は××をした」、「俺は△△と考えた」など、自分を示す言葉で物語の進んでいくものです。
一般的に分かりやすい例を挙げますと、夏目漱石の『我輩は猫である』があります。というか、文学はたいてい一人称です。ライトノベルをよく読む方でしたら、西尾維新の『戯言シリーズ』を思い浮かべると分かりやすいかと思います。
小説というものは、台詞と地の文に分けて考えることができます。台詞は「」の中のことです。そして、地の文とは「」で囲われた以外の全ての部分です。三人称では地の文とは客観的な事実を示しますが、一人称の小説では地の文に主人公の個性が色濃く現れます。
例えば、地の文において、「悲しい」や「嬉しい」と書かれたとします。この場合、世界中の全ての人間が悲しんでいるというわけではなくて、視点の人物であり、主語を担っている主人公が悲しんでいると考えられます。
一人称の小説では、主人公と地の文は定義上イコールです。しかし、実際に幾つか小説を読んでみると分かりますが、主人公と地の文はいつでも必ず一致しているとは限りません。例えば、未来の主人公が過去を回想しているという設定の場合、台詞は過去の状況を示しているのに、地の文は未来から過去を思い返したような表現で書かれることもあるのです。
そして、マンガとは三人称の媒体である、としばしば言われます。例えば、マンガというのは全てのキャラクターが同一に描かれます。主人公も脇役も、必ず同じようにコマの中に描かれます。仮に一人称であるのならば、主人公は視点人物なのですから、コマには描かれないはずなのです。
『ハチミツとクローバー』の上の画像で示したような技法は、マンガという三人称の表現の中に、一人称の視点を取り入れたものだと考えることができます。背景と台詞は三人称として描き、モノローグは個々のキャラクターの地の文として機能させているのです。
地の文は視点人物の心情を表現する役割を果たしますが、それは台詞や背景に示されているような時間や状況に左右されません。同じ画面に描かれていながら、別々の層として読者に内容を訴えかけているのです。
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