![LO (エルオー) 2008年 08月号 [雑誌]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/516pOHLPnIL._SL160_.jpg) LO 2008年 08月号
佳乃子が走ってくる。大きく口を開けて、叫んでいる。子供らしい、甲高い声が伝わる。ほとんど鳴き声に近いそれは、内容を聞き取るのも難しい。おそらく、他の誰にも分からない。長年の親子としての時間だけが、自分に佳乃子の言葉を理解させる。
「すっげー!」
ただ、その一言だけを何度も何度も繰り返している。車で通り過ぎた瞬間から、今まで。佳乃子はその一言しか喋っていない。とにかく興奮して、走っている車を止めさせ、飛び出していった。あんなに元気な姿を見るのは、今日は初めてだ。
行楽の最初から、佳乃子の機嫌は悪かった。いつもだったら大暴れして、断固として抵抗しただろう。ところが、今日はそれすらしなかった。とにかく黙りこくって、最低限の身振り手振りで過ごしていた。大きな瞳は細くすがめられ、唇は横一線に固まっていた。
妻の機嫌も悪かった。こちらはいつも以上に明るく振舞っていた。傍目から見れば上機嫌な奥様に見えただろう。しかし、夫である僕には分かる。妻もまた、佳乃子同様に、佳乃子以上に腹を立てていた。これだけ機嫌の悪い妻を見たのはいつぐらいぶりだろうか。
佳乃子は好んで、短パンにTシャツを着ている。動きやすい、というのが理由だ。一ところに留まっていることのない佳乃子にとって、動きやすさとは最重要のことなのだろう。自分が小学生だった頃もそうだった。晴れの日も雨の日も遊びまわり、雪の日には全身をずぶ濡れにして帰ったものだった。
妻も、活発な佳乃子は嫌いではなかった。詳しく聞いたことはないが、妻もやはり活発な少女だったのではないか。十数年を共に暮らしていると、そう思うこともある。今ですら行動的で、子供のようなところのある。佳乃子は僕にも妻にも、似たのだろう。
ただ、妻は佳乃子に可愛い服を着せたいのだった。動きやすくて可愛い服というものも、ないではない。ただ、「走れない」という理由でスカートを嫌がる佳乃子なのだ。妻の考える「可愛い」に近づけるのも、なかなか難しい。
ここ最近は毎日のように戦っていたのだが、特に今朝はひどかった。久しぶりにまとまった休日の取れた僕のため、今日は郊外のショッピングモールに出かけることになった。子供にとっての一大イベントであるお出かけを前にして、妻は可愛い服を条件にした。
ワンピースを着ないのなら、お出かけはなしにする。細かな話まで聞き取る気はなかったが、大まかな内容はそれだった。いつものような争いは、長引いた。何度も仲裁に入り、何の解決にもならないことを僕は知っていた。大きな女と小さな女の争いに、男の入る余地はない。
玄関に座って待っていると、佳乃子が押し殺すように泣いているのが聞こえてきた。慌てて部屋に戻った僕は、能面のようになった妻と理不尽をかみ締めるように全身をこわばらせる佳乃子を見た。妻の買ってきたワンピースを、佳乃子が踏みつけたのだ、と後で聞いた。
その場では、何が起きたのか、まるで何も分からなかった。出遅れた僕は、とりあえず、床に落ちたワンピースを佳乃子に着せた。既に着ていた短パンとTシャツを脱がせ、頭からワンピースを被せる。その間、佳乃子はされるがままだった。
そこから、今の今まで、ずうっと憂鬱な一日だった。気詰まりだった。明るく振舞う妻と無言の抵抗を示す佳乃子。いつものことだと傍観していた僕は、妻にも佳乃子にも、どう相手をしていいのか、分からなかった。妻のプライドか、お出かけそのものが中止されることはなかった。
そして、数秒前だ。胃に穴の開くようなショッピングモールの時間を過ごした帰り道。道の混む国道を避け、小さな田舎道を走っていた。ほんの数秒前まで断固として口を開くことのなかった佳乃子が、突然に叫びだした。
「すっげー!」
興奮した佳乃子が、僕の背もたれを何度も叩く。あまりにも興奮していて、自分が何をしているのかも分からない状態らしい。嵐のように言葉を吐き出し、車内は佳乃子の言葉で埋め尽くされた。隣を見ると、妻が怒ったような、驚いたような顔をしている。おそらく、僕の顔も似たようなものだったろう。
背中を叩かれ、叫び続ける佳乃子をなだめようと、車を止める。その瞬間、佳乃子はドアを開け、飛び出した。まるで弾丸になったように、真っ直ぐに道路を駆け抜けていく。佳乃子が山に吸い込まれていくのではないか。そう思えた。
佳乃子は可愛いものが嫌いでない。ただ、動きやすい服を着ることと可愛い服を着ることであれば、動きやすい方がいい。それだけなのだ。動きやすそうで可愛くもあるキャミソールの話をした時、母は少しだけ嫌な顔をした。だから、それ以来、自分から可愛い服の話はしないのである。
そんな佳乃子にとって、母の買ってきたレインコートは密かなお気に入りであった。少しだけ明るさの抑えられた赤色は、佳乃子にとって大人の色に思えた。左の下につけられた二つの花は可愛らしく、大人ぽいけど可愛い。それが佳乃子にとってのレインコートだった。
だからこそ、可愛いものが好きだからこそ、ワンピースは気に入らなかった。母は佳乃子を男の子のようだと思っている。男の子のように元気で、運動が大好きで、赤やピンクよりも緑や青が好きな男の子だと思っているのだ。だから、青くて可愛さの抑えられたワンピースを買ってきた。
父に、半ば強引にワンピースを着せられた時、佳乃子は上からレインコートを羽織った。密かなお気に入りであり、買ってもらってから一度も袖を通していないレインコートを着た。可愛くないものを可愛いもので隠す。ほんのささいな抵抗が、レインコートなのだった。
もちろん、母の機嫌が時を追うごとに悪化していったのはレインコートのせいだった。母は佳乃子の気持ちを正確に理解することはできていなかった。だが、それが娘から母に対する何らかの当てつけであることははっきりと理解できた。
車を飛び出した佳乃子のレインコートは、あっというまに濡れていった。ショッピングモールで外されたフードはそのままで、佳乃子自身をグショグショに濡らしていく。頭のてっ辺から首を伝い、腹を伝い、長靴には雨水が溜まった。
足と長靴の水はすれ、ガポガポと音を立て、佳乃子は車に一直線に駆け戻った。ハザードのついた車の中には、複雑な表情をした父と少しだけ笑顔の母がいた。なぜ母が笑顔なのか、佳乃子には分からない。それでも、もう、今日は終わったのだと何かが告げていた。
父と母に会おう。そして、自分が今見てきたものを教えよう。きっと、二人とも喜ぶはずだ。三人で空を見て、笑いあって、幸せになる。数日後には風邪を引くかもしれないが、そんな先のことは分からない。今はとにかく叫ぶのだ。思ったことを、感じていることを。
「すっげー!」
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