
男はみんなスケベである。すべからく、例外なく、スケベである。友人と猥談しかしない男も、外見をクールに見せかけている男も、間違いなくスケベ。それは友人とエロい話をするのが楽しいか、自分だけの妄想の世界に浸りたいか。それくらいの違いしかない。いうなれば、見た目で分かるのはただのスケベ。見た目では分からないのが訓練されたスケベなのである。
『バカとテストと召喚獣』には、このストレートにスケベなヤツと押し隠してスケベなヤツが両方登場するのである。ストレートにスケベなのが主人公である吉井明久であり、押し隠すスケベが土屋康太である。(実際には、明久の方が隠している感じがあるし、土屋の方がストレートな気もするが、設定は上のようになっている)。特に土屋は自身のスケベ心を必死になって隠すため、ムッツリーニの二つ名を与えられるほどである。
ムッツリーニほど極端な例はそうそういないが、現実にも結構この手の男は多い。普段は押し黙っていたり、女の子と平常に話せない。運動も勉強もそこそこできるが、保健体育だけは妙に気合が入る。クラスに一人は、こういう男がいるものである。何を隠そう、俺もそうであった。
このことに関して、男性と女性では見解が違うように思える。男性作家と女性作家では、クールなキャラの描き方が微妙に違っているのだ。男性作家の描くクールキャラとは、ムッツリスケベのことである。『幽遊白書』の蔵馬や飛影、『ナルト』のサスケなど、全員ムッツリスケベである。表面上にそれを出すことに抵抗があるというだけで、欲は持っている。
女性作家の描くクールなキャラには、この欲というものが描かれていない。もしくは、その欲が微妙にズレて描かれている。例えば、『リボーン』には雲雀という風紀委員が登場する。彼は力で高校の風紀を守ろうとするため、問答無用で武器を振るうような男である。彼は自身の欲を全く持っていないように、俺には見える。そして、あまりにも過度にクールでありすぎる、とも。
不思議なことだが、男社会の中ではムッツリスケベは人気がある。スケベ心を持っているということが、一種の免罪符になるところがある。どんな男でも一皮剥けばスケベという共通の認識があり、それによって許される部分がある。つまり、クールに見える男でも、スケベ心が見え隠れするだけで、その行動が認められるのだ。『バカとテストと召喚獣』のムッツリーニのようなキャラが強烈に肯定されているのを見ると、俺はそこに男社会の内情を感じる。
逆にいえば、全くスケベ心の見えない男というのは、男社会では受け入れられない。仮に、スケベ心の見えない男がクールで打ち解けなければ、その行動は許されない。その行動が正当だろうと、力が強かろうと、おそらくすぐに排除される。だから、クールすぎる男性キャラを見ると、俺はそこに女性特有のファンタジーを感じる。
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