愛のあるエロが書けるのは、マンガか小説しかない。これは一つの真理である。何故なら、ドラマや映画など生身の人間が愛を表現することもできるが、それは役柄の中においてのみである。本来的に愛のない男女が完全なる愛を体現できるはずがない。
■現実世界で愛を発表することの難しさ
まず、ほんのすれ違いのセックスに真の愛があるだろうか。ないとは言い切れないが、それは珍しいだろう。相手の現在だけでなく、過去や未来をも受け止めてこそ、愛を育むことができる。ごく瞬間的なものではダメなのだ。
しかし、現在や過去、未来までをも受け止めざるを得ない二人が、そのセックスを堂々と外部に晒すことができるだろうか。仮に二人が別れたとなれば、後々悲惨なことになるのは目に見えている。別れなかったとしても、その後の社会生活や子供のことなど問題は山積みだろう。
整理すると、ドラマや映画などでは偽りの愛しか描くことは出来ない。生身の人間の演技には残念ながら、限界がある。そして、愛し合う二人のセックスを発表することは物理的には可能だが、精神的には難しい。つまり、現実世界では愛のあるエロは書けないのである。
■ファンタジーゆえの、愛の体現
だからこその、エロマンガであり、エロ小説である。マンガは描いたものしか表現されない。マンガ家が意図して書いた線やベタ、トーンのみが作品に表れる。エロ小説も、そうだ。作家の書いたもののみが原稿の上に表れる。三次元は無意識に愛のなさを表現してしまうが、マンガや小説は無意識というものが極限まで排除されるのである。
『キャノン先生トばしすぎ』は本当に素晴らしい作品である。もちろん、一話ごとにテーマを変えたセックスは素晴らしい。アナルやコスプレ、自慰など毎回ネタの違うセックスというのは、大変ありがたい。性的な意味で。
ヒロインであるキャノン先生は、顔も体型も設定も完全なる小学生であり、ロリコンとして非常にそそられるものがある。さらにいえば、痴女さながらの言動や行動をしながらも、恥じらいを失わない姿勢や主人公に一途な姿も素晴らしい。
それに、第一話から最終話まで随所に張られた伏線や主人公のエロマンガにかける熱意など、一貫した物語展開はストーリーマンガさながらである。エロマンガでもしばしば精神病や無気力などの問題は描かれるが、セックスがそれらの病を治す処方として描かれてしまう。
しかし、『キャノン先生トばしすぎ』では、主人公の鬱屈した精神を晴らすためにセックスが使われることがない。むしろ、その精神を晴らしたからこそ、明るく楽しくセックスができる。つまり、愛が育まれているからこそ、セックスという流れがあり、非常に素晴らしい。
■愛のあるセックスはエロい
エロいセックス描写に必ずしも愛があるわけではない。だが、愛のあるセックスは必ずエロいのである。愛情が溢れているからエロいのだ、などとロマンチックなことを言うつもりはない。愛の溢れる仕草や所作は生々しく、そこに読者がエロを感じ取るからである。
|