
『電波の男よ』を読んだ。西炯子のマンガで、小学館・フラワーコミックスから出ている。まるで、おとぎ話かファンタジーのような話だった。
もちろん、マンガとはファンタジーである。紙の中に描かれた線であり、それを人間や建物、世界だと認識しているに過ぎない。仮に、現実をベースにした物語であっても、現実そのものが写し取れるわけでもない。空想の産物である。
ただし、ファンタジーであるとはいっても、そこにはある程度の現実感というものが存在する。現実感で分かりにくければ、世界観でもいいし、常識と表現してもいい。作者が想定している「当たり前の感覚」というものが表れる。
その「当たり前」が非常におとぎ話に近いのだ。おとぎ話は、現実に近いものでありながら、現実ではない。例えば、昔々のおじいさんとおばあさんのお話は、現実であるという設定だが遠い過去の話でもある。あるいは、地球の裏側のナイロビの話でもいい。人間としての常識は共有しているようにも思えるが、どこかで断絶している。
この短編集には「波のむこうに」、「電波の男よ」、「海の満ちる音」の三作が収録されている。最後の一作は違うのだが、前者二作は自分に自信のない男女が美人/ハンサムになって行動し始める内容になっている。顔一つが変わっただけで、まるで水を得た魚のように生き生き動き出す。
これらの作品における「顔」とは、シンデレラにおける「ドレス」や「ガラスの靴」に相当する。そう見える。そもそも、顔にもドレスにも価値はない。ただ、周囲の期待に応えられるようになるだけだ。その視線を自分で自分に適用し、苦しむ。だからこそ、それが解消されることで自由な行動ができるようになる。
シンデレラがドレスやガラスの靴を失うように、これらの作品でも主人公たちは顔を失う。もしくは、顔によって傷つく。「顔」という魔法の力を持て余して、それらを放棄する。魔法を手放すことによって、ようやく真の幸せを手に入れる。
このあまりにも美しいストーリー展開が、非常におとぎ話的なのである。現代の童話といってもいい。人によってはご都合主義と言うかもしれないが、個人的にはとても素晴らしいことだと思う。俺の感じる「良い」を的確に表現するのは難しいが、抽象的に書けば「帰ることのできる場所」ということになる。
様々なマンガや小説、映画にゲームが溢れている。ファンタジーにSF、殺し合いに恋愛。逆に、全く何も起こらない日常を描く作品もある。そういった多様な市場の中で、基本となるような話というのは救いになる。そう感じる。
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