■『よつばと』に抱く違和感
『よつばと』の世界は、宇宙のどこかである。オリオン座でもいいし、白鳥座でもいい。異次元でもいいし、パラレルワールドでも構わない。重要なことは地球ではなく、日本ではない、ということだ。少なくとも、今ここではないし、過去にも未来にもない。
感覚の問題である。俺は『よつばと』を読んでいると、上のようなことを感じる。『よつばと』の世界は、地球の日本の今に見える。日本のどこかの一家庭の日常を淡々と描いた。そのような作品に思える。しかし、俺にはそれが、日本のどこかをモデルにした架空世界で、地球人によく似た人間が牧歌的な日常を送っている一コマであるように見えるのだ。
どう表現すればいいのか分からないが、『よつばと』と俺の生きる現実には決定的な断絶がある。文学的に表現すれば、同じ鉛筆で絵や文字を書いているのだけど、そこに記されている内容は全く違う。例えるなら、俺が自宅の風景を絵に描いており、横目で『よつばと』の世界を見るとそこにも誰かの自宅が描かれているように見える。だが、俺には自宅に見える『よつばと』の風景は、実は墓であったり公共施設だったり、もしかしたら建築物ではなく食べ物や道具なのかもしれない。そういう錯覚がある。
■『庭先案内』の親近感
『庭先案内』の世界は、明らかに日本でもなければ、地球でもないかもしれない。そこには鬼が住んでいるし、神様と人間が仲良く話すことができる世界でもある。想像を映し出す映写機もあれば、被るだけで幸せが訪れる帽子もある。これは現実よりもSFやファンタジーの世界である。そこに登場するキャラクターの顔立ちも日本人らしくはない。長いマツゲのついた縦長の瞳は、東南アジア系のどこかの国の人物に見える。
しかし、『庭先案内』の世界は、現実と地続きである。これも表現が難しいのだが、今ここにいる自分と『庭先案内』はどこかで繋がっている。そこに描かれているものは現実には存在せず、キャラクターは自分と似ても似つかない。女性や子供ばかりでなく、中年男性や爺さんまで愛らしく描かれる『庭先案内』に比べれば、『よつばと』のジャンボの方がまだしも自分に近いと言える。しかし、『庭先案内』には不思議にシンパシーを感じるのだ。
これも文学的に表現すれば、個々が持っているものは鉛筆や万年筆、筆やボールペンだが、それを使って描いているものは同じである。線の形や太さ、色などが全て違っており、それによって描かれる形も違っている。あるものは四角い箱で、あるものはテントである。しかし、それが表す内容は全て誰かの家という点で一致している。
■作者の視点が親近感
リアリティや親近感といったものは絵柄の問題はないのだ。物語の質でもない。何故なら、『よつばと』は『庭木案内』よりも緻密な絵柄であるし、舞台も現実に近いからである。キャラクターの行動原理から暗に示される、作者の視点そのものが親近感であり、リアリティなのである。
|